ゆたかな暮らしの歳時記

無病息災の願いを込めて
七夕にはそうめんを

2021/06/24

7月7日の七夕にはどんな思い出がありますか?「天の川をはさんで、離れ離れの織姫と彦星が、年に一度だけ会うことができる日」そんな絵本を読み聞かせてもらったり、短冊に願い事を書いて笹に飾ったりした人も少なくないでしょう。
今回から始まる「ゆたかな暮らしの歳時記」では、食文化研究家の清絢(きよし あや)さんから、日本の歳時記と、それにまつわる歴史や食、文化についてお話を伺います。今回のテーマは「七夕」です。

奇数月の奇数日
厄払いをしようと始まった五節供

「七夕は、もともと古代中国から入ってきた暦法に由来する五節供の行事のひとつです。五節供とは、1月7日・人日(じんじつ)『七草の節供』3月3日・上巳(じょうし)『雛祭り』5月5日・端午(たんご)『菖蒲の節供』7月7日・七夕(しちせき)『七夕(たなばた)祭り』9月9日・重陽(ちょうよう)『菊の節供』のことを言います。古代中国では、3月3日や5月5日のように月と日が同じ奇数で重なる日は厄日と考え、厄払いをしようとしたのが五節供の行事のはじまりです。現代的に言えば、季節の変わり目は体調を崩しやすいため、節目となる日に、皆が元気で過ごせるようにという思いを込めて、厄払いの行事を行ったのです。

現代では、「五節句」「五節供」と2種類の漢字表記が使われていますが、「五節供」と表記するのが、本来の意味だと清さん。

「旬の食べ物を神仏に“供え”、行事の後には分け合って食べることで、旬の食べものの活力をとりいれ、無病息災を願うのが本来の五節供。ですから、“せっく”の文字も五節供とするほうが適しています」

食文化研究家の清絢さん

では、日本における七夕のお祭りは、どのように生まれたのでしょうか。

「五節供のひとつ七夕ですが、日本の七夕行事は、中国の星まつりの物語や、日本古来の水神様への信仰、さらにはお盆の先祖供養の習俗など、さまざまな文化や習俗が混ざり合って、時代とともに変容し、現代まで続いてきました」

織姫と彦星が年に一度、天の川を越えて会えるという有名な「星まつり」の物語は、中国で1世紀には生まれていたと言われており、6世紀に成立した中国の歳時記『荊楚歳時記』では、すでに七夕伝説の悲しい恋物語の骨格が完成していたそうです。

「中国では、7月7日に乞巧奠(きっこうでん)という行事も行いました。織姫と彦星が出会うこの日、糸や針の仕事を司る織姫(織女)にちなんで、手芸や機織りなどの技巧上達を願う日とされました。

一方、日本には、『棚機津女(たなばたつめ)』の伝承が存在していました。7月6日から7日の間、天からおりる水神に神聖な布を捧げるため、棚機津女と呼ばれる女性が小屋に籠もって機織りをするという日本古来の物語です。

中国の七夕伝説や行事は、奈良時代の日本にはすでに伝わっており、貴族社会に取り入れられていきました。そこへ、日本古来の棚機津女の伝承や水神信仰などが合わさって、広がっていったのです。諸説ありますが、“七夕”を“たなばた”と読むようになった背景には、こうした理由があったと考えられています」

織姫と彦星にまつわる物語は、奈良時代末期に成立した万葉集の和歌の中にも十数種存在します。また、奈良から平安時代には、貴族らが技芸の上達を願う行事として七夕が定着。江戸時代になると、庶民の間に広がっていきました。

現代よりも華やかだった
江戸の七夕

「江戸時代の浮世絵には、大きな笹を屋根より高く飾る町の様子や、笹に短冊を付ける様子が描かれています。江戸時代後半の江戸の人々は、現代よりもずっと賑やかにお祭りを楽しんでいたようです」

七夕を楽しんだ江戸の人々
(出典:『「不二三十六景」「大江戸市中七夕祭」』
(東京国立博物館(TNM)所蔵、ARC浮世絵ポータルデータベースより))

そして、七夕の日のお供え、行事食として、江戸の人々が用いたのが「そうめん」でした。

「江戸時代後期の江戸では、七夕にそうめんを食べたり、進物として贈り合ったりする文化が定着しました。貴族社会の成立が早かった京都では、江戸時代前期にはすでに、そうめんを食べて歌会を開き、七夕を祝ったという記録が残っています」

しかし、もともとは、七夕にそうめんを食べていたわけではなかったと、清さん。

「当初、貴族たちが七夕の供物として飾ったのは、『索餅(さくべい)』というものでした。索餅は、小麦粉をこね、ねじって揚げたり、茹でたりしてつくったお菓子のようなもので、中国から伝わりました。この索餅が原型となり、やがてそうめんが生まれ、七夕の供物とするようになったと言われています」

現代ではそうめんは、夏の定番料理、庶民の日常食ですが、江戸時代のそうめんはまだまだ高級品。大都会である江戸では、そうめんが定着していましたが、他の地域では、独自の七夕文化が普及していきました。

そうめんの原型と言われる「索餅」

地域ごとに発展した
七夕飾りと供物

江戸以外の町では、どのようなものを供え、食していたのでしょうか? 江戸後期の日本各地の風俗習慣を調べた『諸国風俗問状答(しょこくふうぞくといじょうこたえ)』(1815-16頃)という書物にいくつか記録があるそうです。

「たとえば、備後国(現在の広島県福山市周辺)では、七夕にはウリやスイカを供えて飾ると記されています。農村地域では、そうめんという記述は少なくて、夏野菜をお供えするのが一般的だったようです。また、福島県のように、うどんを打って供えた地域もありました。

そもそも、五節供の考え方である、旬のものを供えて、食し、健康を祈るという意味では、各地の七夕の供物は、理にかなっているように思いますね。
また、本来、五節供は旧暦で行われていたもので、現在、日本で用いられる新暦と実際の季節や旬の産物とにズレが生じるということもあり、地域によってはお祭りなどと紐付けて、今も旧暦で行事を行うところもあります」

さらに、七夕飾りにも地域の特徴があるとか。

「長野県の松本では『七夕人形』という飾りを軒下に吊るして飾るという文化が今も残っていますし、高知県の須崎や千葉県の一部地域などでは、藁でつくった馬や牛を飾る風習があり、『七夕馬』や『わら馬』などと呼ばれています。盆行事の一環として七夕を行うという地域もあります」

軒先に吊るした七夕人形(出典:『真澄遊覧記』菅江真澄 国立公文書館デジタルアーカイブより)

このように江戸の町や、日本各地で、庶民の行事として七夕が定着しましたが、明治に入り、五節供が休日ではなくなったのを機に、五節供にまつわる行事も一時は華々しさを失っていきました。

「桃の節供や端午の節供は、子どもたちの成長を祝う意味合いが強かったため、行事として残りましたが、七夕や重陽の節供は、馴染みのうすい行事となってしまいました。しかし、七夕は、幼稚園や小学校などの学校教育の場で行われるようになり復活。短冊に願いを書くなど、現在のような形で残っています。また、有名な仙台の七夕は、戦後になって街のイベントとして改めて行われるようになり、今では多くの観光客を集めるようになりました」

これからもさまざまな形で行事が残ってほしいと清さんは言います。

「七草粥やひな祭り、こどもの日、七夕という形で、私たちの生活の一部となっている五節供ですが、季節の節目に健康や平和を願い、厄払いをしようという思いから始まったことは、今ではあまり意識されていません。しかし、元はそういった意味合いがあって、そうした人々の想いから行事が続いてきたのだという歴史に思いを馳せて、その日一日を過ごすことは、豊かな暮らしにつながるように思います。一方で、あまり難しく考えすぎず、子どもたちや、家族が楽しいと感じる行事として、残ってほしいと思っています。最近は、スーパーマーケットや専門店などで、『七夕にそうめんを食べましょう』と打ち出すところも増え、星型にきった野菜などそうめんに飾って楽しむレシピなども、ウェブサイトやレシピ本などで紹介されています。ぜひそんなふうに楽しみながら、五節供のひとつ、七夕を楽しんでもらえたらと思いますね」

藁でつくる「七夕馬」や「わら馬」

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

一般社団法人 和食文化国民会議 調査研究部会 幹事。
専門は食文化史、行事食、郷土食。近著は『和食手帖』(共著、思文閣出版)、 『ふるさとの食べもの(和食文化ブックレット8)』(共著、思文閣出版)、『食の地図(3版)』(帝国書院)など。