ゆたかな暮らしの歳時記

古くから暮らしに根付く
七草粥を食卓に

2021/12/23

古くから暮らしに根付く七草粥を食卓に
古くから暮らしに根付く七草粥を食卓に

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。これらは春の七草と言われ、17日の七草粥の季節が近づくと店頭に並びはじめます。こうした習慣は、いつから始まったのでしょう? 食文化研究家の清絢(きよし あや)さんに、今回は、「七草粥」をテーマにお話を伺いました。

中国と日本の文化が融合
平安時代から行われていた人日の行事

七草粥を食べる1月7日は、五節供の行事の一つで「人日(じんじつ)」といわれます。五節供とは、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日のことで、それぞれ雛祭りや端午の節供といった行事が行われてきました。古代中国では月と日が同じ奇数で重なる日は厄日であると考え、厄払いをしようとしたのが五節供の始まりです。
しかし、1月は1月1日ではなく、1月7日と少し変則的になっています。なぜ1月の節供は7日で、この日に七草粥を食べるようになったのでしょうか。

食文化研究家の清絢さん

「室町時代の史料を見ると、人日である1月7日は五節供に含まれず、正月の1月1日を含めた五日が五節供と考えられていたようです。しかし江戸時代になって、元日に代わり人日が五節供のひとつに加えられ幕府の慣例行事となりました。1月1日は、お正月の行事がすでに普及していたことから、1日ではなく7日になったといわれていますが、いわれはそのほかにもさまざまあります。

古代中国では、元日から8日までの8日間、占いをしていました。1月1日は鶏、2日は狗(いぬ)、3日は羊を占い、続いて、猪、牛、馬、人、穀(イネ)と、1つずつ占います。その中で、1月7日は人を占う日、つまり『人日』にあたり、この日に7種類の菜っ葉を使った汁物を食べて無病息災を願う習慣がありました。

中国の風習とは別に、平安時代の日本では、1月7日に『七日節会』と呼ばれる宴会を行っていました。また、同じ頃、『若菜摘み』という行事があり、春の若菜を摘んで食し、健康を祈っていました。
中国でも日本でも、寒い冬から春へと移り変わる季節に邪気を払い、無病息災を祈ったのでしょう。中国からきた習慣と、もともと日本で行われていた行事が融合され、日本独自の人日の行事が生まれたと考えられます」

こうした習慣は、宮中の貴族のための行事として始まりましたが、時を経て庶民にも広がっていき、江戸時代には五節供として制定され身近な行事となっていったそうです。

若菜摘みの様子 『大和耕作絵抄』 国立国会図書館デジタルコレクションより

囃子言葉を唱え、若菜を叩く
厄除けを願った七草粥

中国では7つの菜っ葉を入れた汁物だったのが、日本でいつ七草粥になったのかは定かではありません。しかし日本でも古くから行事として七草を調理していた様子が残っているといいます。

「たとえば、鎌倉時代末頃の史料には、邪気を除くために7日に七種の草を入れた羹(あつもの)を食べることが記されています。また別の鎌倉時代の資料には、貴族たちがおまじないのような囃子言葉(はやしことば)を唱えながら、若菜を叩いていたとあります。叩くというのは、2本の包丁を持って細かく刻むような動作。もともとは6日の晩から7日の朝まで厄払いを願いながら、夜通し叩き続けたといいますから、翌朝には若菜はペースト状になっていたでしょうね。それがいつしか簡略化され、6日の晩と7日の朝に七草を叩いて、粥に入れて食べるスタイルに変化していったと考えられます」

また、江戸幕府の儀礼の様子を描いた『徳川盛世録』(1889)という資料にも、小袖を着た人物が恵方を向き、七草を叩く姿が登場します。

「おまじないのように唱えた囃子言葉というのは、『七草なずな、唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に〜』といった言葉ではじまるものです。季節の変わり目は病気や厄災に見舞われやすいため、それらを象徴する鳥を追い払いたいという願いが込められています。今でも地域によってこうした言葉を唱えながら、七草をつくる風習は残っています」

江戸時代の人日の節供の様子 
『江戸府内絵本風俗往来』(1905)
国立国会図書館デジタルコレクションより

おおらかに取り入れられた
各地の七草粥の習慣

では、「せり、なずな…」などの七草は、いつから言われるようになったのでしょうか。

1446年、室町時代中期の資料には、『せり、なずな、ごぎょう、たびらこ、ほとけのざ、あしな、みみなし』とあり、たびらこや、あしな、みみなしなど、現在知られる七草とは違うものが含まれています。その後、1688年に発刊された『日本歳時記』には、『せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草』と書かれており、江戸時代前期には、七草の存在が庶民の間でも知られていたようです」

しかし、現在とは違い、七種を揃えるのは至難の業だったようです。

1867年の資料には、正月7日に三都(東京、京都、大阪)では、七草粥を食べるけれど、民間では1〜2種類を入れるだけで、七草は揃わないと書かれています。たとえば、京都や大阪では、なずなと一緒にかぶ菜を加えて煮るとありますし、江戸では、小松菜を加えて煮ると書かれています。また、七草の季節になると、野山で摘んだなずなを売る、なずな売りが現れたという記述もあります。七草粥を食べて、無病息災を願いたいという気持ちを持ちつつ、実際には身近に揃う菜っ葉で代用しながら、七草粥を楽しんでいたようですね」

地域によって粥に入れるものは、さらに多様になるという。特に寒い地域では、この時季に菜っ葉を手に入れるのは難しく、さまざまな工夫をしていたことがわかると、清さん。

「江戸時代後期の各地の習俗を紹介した史料のなかで『七草に何を入れますか?』と質問をしているのですが、福島県からの答えとして『なずな、かぶ、ほんだわら、つのまた、昆布、干し柿』を入れているという記述があります。ほんだわら、つのまたは、昆布と同様海藻です。きっと乾物として保存が効く海藻や正月に供えた干し柿を七草の代わりに粥にいれたんでしょうね。

愛知県の記述には『なずなと、すずなのみ。せりを入れる家もまれ。まして七草をいれるのは、物好きでないとしない』とあり、庶民の本音が見受けられます。

いろいろな史料を見てみると、ほんとに多様なんです。青森県の陸奥市では塩漬けの高菜やワカメを入れていましたし、新潟県長岡市では大根、ごぼう、にんじん、するめ、さといも、こんにゃくを入れた雑煮をつくっていました。福岡県の博多では『七草汁』といって『大根、かぶ、よもぎ、せり、なずな、よめな、かつおな』といった、その土地の菜っ葉を叩いて味噌汁に入れたと書かれていたりも。
今のように流通が発達していない時代、地域ごとに思い思いの七草粥を工夫してつくっていたんだということがよくわかりますね」

こうした江戸時代の様子を知ると、災いを退け健やかに過ごしたいという、今と変わらぬ人々の想いを感じると清さんはいいます。

「歳時記や行事食というと、どうするのが正しいのか? 伝統的にはどうしていたんだろう?と考えてしまいがちです。でも、昔の人々の姿は、もっと自由でいいんだなと思わせてくれます。大切なのは、季節の変わり目に雪を割って芽吹いた若菜のパワーを分けてもらって元気に過ごそう、無病息災を願おうという思いです。私たちも、『こうでないといけない』といった思いに縛られることなく、家族の健康を祈り、楽しみながら、人日の節供を迎えたいですね」

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

一般社団法人 和食文化国民会議 調査研究部会 幹事。
専門は食文化史、行事食、郷土食。近著は『和食手帖』(共著、思文閣出版)、 『ふるさとの食べもの(和食文化ブックレット8)』(共著、思文閣出版)、『食の地図(3版)』(帝国書院)など。

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