ゆたかな暮らしの歳時記

こどもの健やかな成長を願って。
端午の節供が「こどもの日」になったわけ

2022/04/28

こどもの健やかな成長を願って。端午の節供が「こどもの日」になったわけ
こどもの健やかな成長を願って。端午の節供が「こどもの日」になったわけ

こどもの日といえば、どんなことを思い浮かべるでしょうか。もしかしたら、「屋根より高い 鯉のぼり〜」から始まる童謡を思い出すという人もいるかもしれません。こどもの日は、五節供の端午の節供にあたります。食文化研究家の清絢(きよしあや)さんに、端午の節供についてお話を伺いました。

鯉のぼりは江戸の流行商品?

5月5日はこどもの日ですが、この日は五節供の一つ「端午の節供」にあたります。五節供は、月と日が同じ奇数で重なる日は厄日であると考えた古代中国の習わしが起源です。そのため1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、古くからさまざまな厄払いが行われてきました。現在では七夕やひな祭りのような行事として残っています。
では、端午の節供は、なぜこどもの日になったのでしょうか。

食文化研究家の清絢さん

「古代中国では、55日の厄払いに菖蒲が用いられていました。菖蒲の強い香りが厄除けになると考えられていたからです。たとえば、中国の六朝時代の風俗や年中行事を表した『荊楚歳時記』によれば、菖蒲を浸した菖蒲酒を飲むなどして厄災を除き、病魔を避けていたようです。端午の節供を『菖蒲の節供』とも呼ぶのはこうした中国の古俗に由来します」

こうした行事が、日本にやってきたのは、五節供が伝わったと同じ奈良・平安時代のことだと、清さん。宮中行事の一つとして貴族の生活の中に取り入れられ、徐々に定着していきました。

また、この日には騎射や走馬といった催しが古くから宮中で行われていました。その後、鎌倉時代、室町時代になると、日本ならではの風習が生まれるようになります。

「武士の時代となると、『菖蒲』という音の響きが『勝負』や『尚武』に読み替えられ、端午の節供が、武芸や練武を重んじる男児を祝う日と考えられるようになりました。端午の節供が、厄払いの日から男の子の成長を祝う日へと意味を変えていったのは、こうした経緯からです」

今日、こどもの日に飾る、兜や武者人形もこの頃の風習が元になっています。

「古くは菖蒲の葉を輪にし、髪飾りのように頭に乗せて厄払いをしていましたが、それが徐々に兜の形になっていきました。江戸時代になると、今と同じように、武者人形を飾るようになります。家の中から外に向けて、通りを歩く人から見えるように飾る当時の様子が書物などに残されています」

ここまできて、「鯉のぼり」が登場しないなと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。実は、鯉のぼりの登場は、江戸時代後期のことだと清さん。

「店頭などに飾られている、商品名などが書かれた旗のようなものを『のぼり』といいますが、端午の節供の飾りとして、まずはこうした、のぼりが登場します。武者絵を描いたのぼりを、戸外に飾るようになりました。現在でも九州地方など各地に、こうした風習が残っているので、見たことがある人もいるかもしれません。

『東都歳時記』に描かれた端午の節供。中央下に鯉のぼりを肩に担ぐ人の様子が描かれている。
(『東都歳時記』(1838)国立国会図書館デジタルコレクションより)

江戸の風俗を記した『東都歳時記』(1838)によれば、55日には戸外にのぼりを立てて、兜人形を飾るとあります。さらに、のぼりと一緒に立てる紙の鯉形は、近年の風習であって、江戸の風俗だと記されています。
つまり、鯉のぼりが登場したのは、江戸時代後期の江戸の町。滝登りをする勇猛な鯉は縁起のいい飾りとして好まれ、江戸で人気を博したのです」

江戸で売り出された当初の鯉のぼりは紙でできており、手で持つような小さなサイズだったそうです。

泰平の時代であり、華やかな文化が息づいた江戸の町では、大変人気があったといわれています。徐々に目立つものへと進化し、布製の大きな鯉のぼりへと変わっていきました。鯉のぼりが全国に広まり、一般の家庭でも飾るようになったのは戦後で、実はとても新しい風習だといえます」

ちまき、柏餅、笹団子
端午の節供に各地で食べる葉に包んだお菓子

もうひとつ、こどもの日と聞いて思い浮かべるのは、『ちまき』や『柏餅』といったお菓子ではないでしょうか。

「もともと、中国から伝わったのは、ちまきでした。茅(ち)で巻いた食べ物という意味で、中国の屈原の故事に由来して、55日にちまきを食べるようになったと言われています」

日本には茅だけでなく、笹や葦、茗荷など、さまざまな葉で巻いたり、包んだりした餅が各地に伝わっています。

「たとえば、新潟の笹団子や、山形の笹巻、鹿児島のあく巻きなど、各地で食べられているこうした郷土の餅菓子は、今でも、端午の節供のお菓子として定着しています」

山形の笹巻(右)と鹿児島のあく巻(左)

端午の節供のお菓子としてよく知られる柏餅を全国的に食べるようになったのは、江戸時代後期のことだと、清さん。江戸の菓子店が、もともとお菓子として存在していた柏餅をこの日のために売り出したのがきっかけだそうです。

「端午の節供に柏餅を食べる風習は、江戸から生まれた文化で、西日本ではちまきを食べるほうが主流でした。江戸時代後期の大阪の風俗を記した資料にはまだ柏餅が登場していませんし、ある文献には金沢で東京の文化にならって柏餅を食べるようになったのは昭和初期のことだと記されています」

柏餅をひっくり返す人やちまきを売り歩く人(『東都歳時記』(1838)国立国会図書館デジタルコレクションより)

ところで、柏餅というと、みそ餡、こし餡、つぶ餡などの味がありますが、江戸時代にはどのような柏餅を食べていたのでしょうか。

「実は、当初、食べられていた柏餅は、塩餡だと考えられます。当時の庶民は甘いお菓子というのは食べておらず、塩味のあんこが主流でした。江戸時代後半になり砂糖が普及するにつれて、みそ餡や甘い餡の柏餅を食べるように変わっていったのでしょう」

こども成長を祝う端午の節供の歴史からも、「邪気を払い、健康でいたい」、「こどもに健やかに成長してほしい」、「豊かに楽しく日常を送りたい」といった人々のさまざまな願いが見て取れます。今年のこどもの日は、そんな古くからの人々の願いに思いをはせながら、過ごしてみるのもいいかもしれません。

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

食文化研究家

清 絢 (きよし あや)さん

一般社団法人 和食文化国民会議 調査研究部会 幹事。
専門は食文化史、行事食、郷土食。近著は『和食手帖』(共著、思文閣出版)、 『ふるさとの食べもの(和食文化ブックレット8)』(共著、思文閣出版)、『食の地図(3版)』(帝国書院)など。

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